明治十六年、イギリス人の建築家コンドルの設計によって建てられた二階建てレンガ造りの鹿鳴館は、時の外務大臣井上馨の社交外交の根拠地となり、家族・顕官・外国使臣などが出入りし、日本における国際社交の頂点を形成していた。
鹿鳴館は、表面的にでも西洋化を急ぐ日本の「文明開化」のシンボルであり、したがって当時の“ハイカラ”の最先端を行くファッションは、鹿鳴館に集う人々によって創られていたと言える。
大塚製靴の祖初代大塚岩次郎は、それとは異質の、表面的にではなく本質的に「文明開化」―“日本人のための”革新を体現しようとするものであった。にも関わらず、同時に、この最先端をゆく鹿鳴館の社会とも密接に結びついていた。
宮内省御用を承る大塚商店は、天皇の御靴を製作するだけではなく、天皇の近辺に生活することができた華族・顕官からも多くの注文を受けていたのである。
例えば、外務省を例にとれば、直任官に任ぜられたり、あるいは、外国に赴任したりするようになって、初めて大塚商店で個人の注文靴を作る事ができる「身分」になったと言われていた事は、世間周知の事実であった。
なぜこうした人々が、大塚の靴を求めたのであろうか。次回は、その根底にある、大塚の“技術”に対する信頼について語ってゆきたい。